軽井沢分室(アントニン・レーモンド新スタジオ) 北澤 興一
私がレーモンドに入所した時に、軽井沢新スタジオが完成しました。そのスタジオはレーモンドの夏の創作活動のためで、毎年10名位のスタッフを連れて、2ヶ月間は麻布から移り住んで仕事をしたものでした。私も毎年のように連れて行かれた事は貴重な体験でした。
その年の代表的な作品の基本設計をするのが仕事で、厳しいレーモンドのもとで毎日緊張してアトリエで仕事をしたものでした。
麻布の事務所とは違い、家庭的で親しみのある楽しい事も多くありました。週末には、レーモンドが顧客や友人を招いて庭でバーベキューを楽しんだり、皆で野山を散策したり、ある時はいきなりゴルフに連れて行かれて、新軽ゴルフで一緒にプレイできたことは、貴重な想い出となっています。軽井沢に於けるレーモンドの日課は、朝4時に起床して、夫妻で犬を連れて近くを1時間散歩してから、絵や彫刻を作って8時から朝食、9時から私達と設計の仕事をして、12時から15時迄は昼食と自分達の事をして、夕方は私達の図面をチェックされる。夜は8時に就寝するという規則正しい生活でありました。
軽井沢新スタジオは、1973年レーモンドが85歳になり、体調をくずして家族のいるアメリカのニューホープに帰国するまで使用されていました。その折に私が譲り受けて、レーモンドが使用していた状態とまったく変わり無く保存しています。家具、壁の絵画、棚の上の陶器までもそのままの位置で、早くも31年間が経過してしまいました。
木造建築で築後42年、屋根の茅葺きが駄目になった以外は、これといった改修は必要がありませんでした。この事実は、仕上材料の選択が完全であったことであり、細部に至る完成度の高さを実証するものです。アトリエは構造体をそのまま表して、杉丸太の組合せが美しくデザインされ、垂木、野地板が仕上げ材となっている。床はブナフローリング貼、壁はラワンロータリーベニヤ目スカシ貼、真鍮釘打は塗装もなく、適度な汚れ色となっているものの、まだ綺麗な状態であります。建物は、図面や写真で見ることより、その部屋で座ったり立ったりして生活することで、その空間の美しさを実感することが出来ます。平面の大きさ、天井の高さ等の比例が良く、障子の和紙を通して射る光は柔らかく、洋間でありながらどこか和風の暖かいインテリアとなっています。
レーモンドの設計理念が集約されているのがこの建物であります。自分自身の為に造られた建物で、保存されているものは軽井沢新スタジオだけであり、今後も大切に保存し、偉大な建築家の業績を讃えて行くべきであります。

レーモンドの業績
レーモンド夫妻は、1919年旧帝国ホテル建設のため、フランク・ロイド・ライトと共に来日しました。1973年85歳で日本を去るまで、主として日本で過ごしながら、数多くの近代建築を設計してきた日本近代建築の生みの親であり、常に指導的立場で活躍された建築家といえます。
アメリカの建築技術や新しい材料を日本に持ち込み、国産化しては創造的で意欲あふれる作品を次々と設計してきた人であります。その作品は日本人建築家の模範となり、日本近代建築の発展に多大の影響を与えてきたことになります。レーモンドは、仕事に対して極めて厳格で一分の妥協もなく、つねに自分の信念を貫いた建築家でありました。その厳しい人格は、そこで働く建築家に強い影響を与え、多くの建築家が巣立っていったのであります。
吉村順三先生も芸大を卒業されて、1931年にレーモンド事務所に入所され、11年間をレーモンドさんのもとで働いておりました師弟の関係にあるわけです。同じように前川国男、杉山雅則、増沢洵さん等々、日本建築界の大家といわれる人たちがおり、その先生方のもとに次の世代が育ち、その人脈系図を書いていくと、レーモンドの存在は計り知れないものになります。
麻布のアトリエでの生活は、所員数は80名と当時としては一番大きな設計事務所であり、そのうち8名がレーモンドの直接の仕事をする小部屋のスタッフでした。小部屋の空気は静かで緊張の連続で、一日中横の所員と話もできない状態もあり、レーモンドが図面チェックに廻って来る午前と午後の4回くらいの時間が、恐怖でもありました。図面を見て気に入らないところがあると、大きな声で怒鳴ることから「雷が落ちる」と所員は表現していました。